未定の自叙伝

レン空プチ自叙伝


〜2008年4月 「ひきこもり島」SNS にて携帯で1週間ほどかけて打ち込んだ「自分の人生振り返り」に多少手を加えました〜



僕は1979年、東京の世田谷区で生まれた。
その後すぐに、神戸の西宮に引っ越した。

ずっと引っ込み思案なタイプの子だった。
友達と遊んでいて泣かされて、走って家に帰ってくるような子。


幼稚園の年長から、東京に戻った。
その頃から、今から思えば「奇行」のようなことがいくつかあった。

幼稚園では万引きをおぼえた。
デパートで、シールやアクセサリー、高いお菓子など。
家の中では、欲しいものを「欲しい」と言える雰囲気がなかった。


小学生の低学年では虚言(常にではないが)、鉛筆がなくなるくらいかじりまくり、机一面をベロベロとなめまわす。
教師が「やめろ」と引き離しても抵抗してなめ続けるくらい。
3,4年生くらいからは、親の財布から金を盗み出し、万引きも復活した。

学校以外は、日曜以外週6日の習い事だ。
「自分のしたいこと」など考えるヒマもなかった。
私立だったので、近所に遊び友達はいなかった。

それでも、読書感想文や創作で賞をもらうのが好きだったり
自分で物語を作って学校に持っていってみんなに読んでもらうなど、ほんの少しはしていたな。

その頃から、文章を書くのは好きだったのかもしれなかった。
というより、文章に自分の気持ちをこめることかな。
文章くらいしか、自由な世界がなかったのかもしれなかったともいえる。
文章なら、こんなふうに長い文章を書くように、苦痛ではない。


小学校5年生で、ベルギーに引っ越す。
小学生高学年では、日本人向け書店に入り浸って、本オタクになるくらいですんだが…。。

中学2年生の途中で、ドイツの全寮制の学校へ転校した。
数ヶ月ほどして、過食がはじまった。
とにかくお菓子など食いまくっては、その後太りたくないので吐く。
だんだん、飯を食っても吐くようになっていった。
太りたくないので、脅迫的に毎日走って、泳いで、筋トレしていた。


 



僕は、「理解される」ことが幼少の頃から、ずっと無かった。
飢えていた。

「自分らしさ」を理解してくれること。
「自分の意見」を尊重してくれること。

そんなふうに「自分らしく」接してくれる人をずっと求めていた。
聞いてくれるだけでよかった。
「でもね」とか「あのね」とか否定せずに。

ただ、家族の中には、あまりにもその環境はなかった。
「守られてない」と子どもながらにうすうす感じていたのだろう。

万引きすることでしか、イライラを鬱憤晴らす場所がなかった。
自分の欲望を、誰にも聞いてもらえず、あまつさえ受け止めてもらえることはなかった。
家庭の中では。


母親は「外からどう見られているか」にビクビクして暮らすような人だった。
「生きがい」といえるものはなかっただろう。
あえていえば「子ども」だったのではないだろうか。

祖母は、世間体を気にする、上流に憧れる人だった。

父親は祖母たちに相当無理をされて、私立のボンボン学校→某名門大学→半官銀行へと辿った、いちおう「エリート」だった。

母親は私立のお嬢様コースだ。

父方の叔父のほうに旧帝の教授などがいたりして、僕がエリートコースを辿るのは、望まれていたことだった。

僕が何を望むかよりも、「どんな子どもになったほうがいいのか」が優先された。
言い分を言えなかった。
本当は何をしたいのか、何が欲しいのか、言っても尊重されることはなかった。
というか、言えない空気だった。

幼稚園のころ、テレビを見たかった
NHKしか見たことなかったけど。


−−−−−


そんな家庭状況がずっと続いてた。


高校に入って前半だけは、過食などの奇行も止まった。
海外から帰ってきて、部活というものをやりたくて、体育会なテニス部に入った。
すげえキツくて、まあキツいのは嫌いでもないのでそれなりだったが、不器用で球もろくに打てないしで、1年でやめた。

他にやりたいこともあったってのもあって、演劇にひかれていた。
夜間の劇団の養成所に入って、週3回だっけか、そこに通っていた。
他にもワークショップに行ったり、舞台を見たりして、演劇の世界で生きたいなあ、と思っていた。
養成所は半年でやめて(もともと半年コースだったので)、その後その劇団に進むということもなく、ちょっと色んな演劇界を見て様子を見ようと思った。

演劇の道に進むつもりだった。

だが、当然というべきか、親も、教師も相手にもしなかった。

そこで、一人で退学して進んでいれば何か変わったのだろうか???
もちろん、ボンボンの自分はそんな選択肢をとれなかった。

「無理だったのだ、あきらめよう」と思った。

大学に入ってから、演劇をやる、という考えはなぜかなかった。
そこで踏みとどまることが、リアルではなかったのだ。

自分の思うままの進路に乗りたかった。


 


自分でも自覚するくらいおかしくなったのは、高校3年生くらいの頃だった。

高校は県内でも有名な進学校で、人数から言えば、当時日本で一番東大合格者を出していた。
当然、中等部(自分は高校からだが)のころから「大学に行くのが学校の役割のすべて」みたいな所があった。

教育もクソもなかった。
教師もあからさまに、そういう態度、授業だったし、学生たちもそうだ。
狂っていた。

思えば、その頃から、何か自分以外の意志で動かされることに激しい抵抗を感じていたのかもしれない。
自分の本音に嘘をつき、何か外部の意志に従って何かをやろうとすると、体と心は破錠をきたした。
それが限界だったのだろう。
高校3年生という時期で。


そんな狂った傾向がピークになったのがこの頃だったか?
高校3年をを境に、自分では戻れない、なんとかできない坂を落ちていった。

そういえば、常にスキンヘッドだったな(笑)
痩せっぽちで背が高く、青白い顔は「右翼」とか呼ばれてた(笑)


精神科に通院をはじめたのもこの頃か。
様々な薬を処方してもらい、1年もたたずにリタリン一日4錠までいったな。
クソ病院だった。
すぐ使えるのは、ハルシオン、レンドルミン、リタリン、他覚醒系や即効の酩酊系だった。
それを、飲みながら酒を飲むのだった。
授業中に(笑)

ボルビックのペットボトルなどに、水とみせかけて日本酒。
ウーロン茶のペットボトルに茶ではなくウーロンハイ。
一日意識がなかったときもあったな
何してたんだ学校で。

授業中にいきなり抜け出してトイレや廊下のカベをドンドン殴りつけたり蹴りだしたりもあった。
それどころか授業中笑い出してた(笑!)
それでも、問題にはならなかった。
教師から注意されることすらなかった。

あと1年で卒業する生徒に関わって面倒を起こしたくはなかったのだろう。
国語の女教師が時々、心配して声をかけてくれるくらいだった?
「どうしたの?」みたいに。
それも、おざなりっちゃおざなりだったな。

高校はボロボロだった。

当然、大学は落ちた。
六大学の下あたりでは受かったとこもあったのだが、行かずに「浪人」化した。
もう毎日目の前に霞がかかっていた。





「誰かに許されたい」…

そんな思いを漠然と抱きながら、夜の町とかをさ迷っていた気がする。
高校を卒業した俺は、ビデオ撮影のバイトなどをしながら、家にこもったりしていた。

反面いろんな友達も出来た。
様々なイベントに顔を出していて、そこで似たような、自分と同じような狂ったラリったやつらと知り合った。
なぜか、女の子が多かった気がする。

卒業後半年くらいたって、自傷もはじめた。
最終的には、体全部切るとこはない、ってとこまで行った。
今でも全身に跡は残っている。

よく死ななかったと思う。
ラリって手首から1リットル近く血が出て、記憶のないまま線路に落ちて倒れてたこともある。


友達もみんな死にそうだった。
居場所のないやつらでたまった。
未来なんて当然無いと思ってた。
25歳まで生きてるはずないだろうな、と思った。
ここではちょっと書けないこともやった。
まあ今更だがな(笑)

まあ察してくれ。
人を傷つけるようなことではない(はず)


危ない友達も増えて…


…そして、詳しくは書かないが何人もの友達が死んだ。

それは、ほとんどは自殺というのではなく、薬と自傷の併用による「事故死」のようなものだった。



僕は何も出来ずにいた。


ただ、知らせが来るのを聞いているしかなかった。



そんな年が、何年もすぎた。


20歳になったばかりのころ、「経済的に自立」しようと、池袋近くのアパートに引っ越した。
しかし、結局親に仕送りをもらい続け、働くことからはどんどん遠ざかっていった。




ひきこもって

いつのまにか自傷はしなくなっていた




ひきこもって

過食はすごかったな。
でも、吐く気力もなかった。





暗い部屋の中で、窓をぎっちりダンボールをガムテで塞いで
一遍の光も入らないようにした






ひきこもって



真っ暗な日々だった。









そして空手をはじめた。


※空手をはじめるまでの詳しい描写はこちら





2002年の7月だったと思う。

空手をはじめて、最初はスパーリングも出ずに基本ばかりやっていた。
半年くらいしてやっとはじめてのスパーに出たのだったな。

最初のスパーで骨折して(笑)
また数ヶ月間が空いた。


その間、ある事件が起きる。
女がらみと、暴力がらみだ。
ちょっとプライベートっていうか、詳しく書かない。

ただ、その事件をきっかけに俺は「少しは強くなろう」と思えるようになった。
気がする。

自分のためではなく、自分の未熟さのために傷つけてしまったり、何も出来ない誰かのために。
空手を続けたい、もう少し強くなりたい、と思えた。


それから、スパーは週一回出るようになって、春過ぎくらいには、なぜか週3回くらい、黒帯にも混じって、ボコボコにされながらスパーに出るようになった。

しかし、なぜか気持ちよかった。
弱い自分が許され、洗い流されていくような感じがしていた。

これは、格闘技の中枢の部分でもあると思う。


2003年の秋に、はじめての試合に出た。
ちなみに準優勝だった。(レベルの高くない新人戦だが)

それから、2ヶ月にいっぺん…1ヶ月にいっぺん…の割合で試合に出た。
勝てない時もあれば、勝てる時もあった。


−−−−−


2004年の春くらいには、新人戦中級クラスで優勝経験も出てきて、バイトを探そうということになった。

最初の日雇いは、本当に工事現場系で、キツ過ぎて数回でやめた。
そんで、日雇いはキツイので、フツー(レギュラー)のバイトをしようということになったな。

色々探して、編集プロダクションにも行ったりした。
だが、残業無しだとどこも無理だった。

それから、他の日雇いをしたんだっけ。
その頃は、日雇い一回するだけでも、すごい勇気だった。

なんか、チェーンの天丼屋とか王道も問い合わせしたのだが、なんか時間とか合わなかったりしたのだったな。


よく自分を責めたな。
「バイトを決められないのは、自立する勇気がないからだ、クソ!」みたいなかんじで。


日雇いは何回かやった。
引越し多かったな〜
社員とかに扱い悪く使われるのが嫌だった。
一回蹴られたりして、蹴り返していいのか迷った。
あと仕分けとかな。

その頃は、バイトしてれば自分をなんとか許せていたな。
だから、多少無理な現場でも受けたりちゃんとやったりしていた。
そのおかげで腰痛めたが。


職業能力が、健康や、強さも左右する。

これは、真実だろう。



それから、どうしても脱ヒキしたくて、色いろなアルバイトをしていた。
ある時、講談社の事務のバイトをしていた。
人間関係でどうしても折り合いが合わなくて、辞めようかと考えていた。
そんな折、空手の子ども指導の話が来た。

週3回で(最初は)5万。
だけど、とにかく嫌な人間関係の中(どこに行ってもそうだった)バイトを続けるよりは、と思って、かなり迷った末、受けた。

本当は、エロ本かどこかの出版バイトも考えていた。
だけど、なんとなく覚悟が決まらなくて 空手の話を受けた。
足りない分はバイトすればいいと思っていた。

もともとは、女子プロレスラーがあまり後先考えずクラスをはじめたのを「家が遠い」という理由で一年で辞めようとしたのを、うちの会館に話がきたのだ。
「必要とされる経験があったほうがいい」という友達の言葉や、「修業だ。俺もそういう時期があった」という先生の言葉に押されて、「まあやるか」と受けた。

はじめての指導は、全然何がなんだかわからなかった。

とにかく明るく楽しくやろうとしたが、ひきこもりには無茶な話だ。
だが女子プロレスラーの真似を して、どうにかやってった。

それまでは、親の金、親の保証人で借りた、5年ほどもいたワンルームに住んでた。
2年ほども、丸ひきこもりを続けたか。

今までは、バイトしても、どうしても金を使い過ぎてなぜか仕送りにも最終的に頼っていた。

そんなのが気持ち悪くて、ワンルームを出ることにした。

指導が大変だったこともあった。
子供と正面から向かい合うのに、誰かの金に頼った、ぬるい居心地の部屋が嫌だったのだ。
逃げ場所にい続けていたくなかった。


−−−−−


それで、ゲストハウスに移った。
ゲストハウスとは、敷金礼金保証人のいらない共同生活物件だ。

最近は、そんなことも少なくなってきたが、指導ごとにテンションが変わって、稽古の質が落ちたり、よくあった。

指導は、場所がかなり遠い。
当時池袋周辺に住んでいたのだが(ゲストハウス)、上尾、朝霞、川越と埼玉の三か所、そこからさらにバス。
川越なんか、往復3時間くらいかかる。

幼稚園の、終わった後、課外授業や、その後の小学生の部で、ク2,3ラスあった。
だいたい、往復入れて、7時間以上はかかるのかな。

ゲストハウスも、最初は慣れなかった。
一番はじめは、ドミトリーと言って、一部屋に二段ベッドが2つ置いてあるような部屋。
住民はいい人ばかりだったが、落ちつくのも難しく、まだ部屋を引き払ってなかったので、たまに部屋に帰ったりしていた。

とにかく稽古後には銭湯に行っていた。
疲れを少しでも取りたかったのだ。
色んな銭湯に行った。

そういえば、この2年くらいはシャワーで済ませてるが、ハウス暮らし最初の一年くらいは、銭湯にいつも行ってた。
実は腰が、ゲストハウス暮らしをする半年〜一年前くらいからどんどん痛くなってきて、少しでも緩めようと、毎日銭湯に行ってた。
講談社のバイトの頃には、常にコルセットをつけてた。


最初のハウスに入ったころは、試合が、(自分ではもう黒帯、一般レベルと思っていたのに)新人戦ばかりで、ちょっと落ちてい たころだったな。
それでもなんとか入賞はして、最初のドミトリーハウスでもトロフィーを2つとったか。

ドミでは面白いやつが多かった。
格闘技をやってる奴も何人かいた。
旅人も。
いつも、毎日練習して夜遅く帰ってきたので、なんか尊敬?されてた。

仲間はいい奴らばかりだった。
一緒にスポーツセンターに行ったりした。
試合の応援にビデオを持って来てくれたやつもいたな。
3位だったけど。

でもちょっと、腰が痛かった。


−−−−−


ドミは、やはり落ち着かないので、ワンルームのハウスに移ることにした。

二つ目のハウスに移る前に、講談社を辞めて、コールセンター(ヤフーBBのカスタマサポート)に移ろうと思ってた。
指導だけじゃ食えないので、稽古のためにもなるべく疲れず、高給のバイトをしたいと思ってたので。

最初の研修の日に、変な自己紹介みたいなミーティングがあって、詳しくは忘れたがバカ正直に話して発表して、なんか注目を浴びてしまった。
パンピーばっかだな、と思った。
大学生が多かったかも。
みんなコギレイなかんじ。
スカしていたが、 金だけ稼いで後はテキトーにやっとこうと思った。

研修はずっと座りっぱで、腰がすごく痛くなってきた。

あと、どうも研修生たちと気が合わなかった。
なんつーか、狭い世界で仲間を作りたがるのな。
僕も、閉じている所はあるけど。

3日目か、4日目か、ずっとモニター向かって説明受けてて、研修仲間とは疎外感で、腰は不安だし「もう耐えられない」と思ったんだな。
「腰が痛すぎて無理です」と手を挙 げて、保健室に行って寝た。
「この仕事、やっぱ無理だ」と、一時間ほど寝て思って、退社して、帰りに辞める届けを出してきた。

4日分の研修代だけは入った。
西新宿のビル街を少しホッとした気分と、ものすごく居場所のない感じが織り交ざって帰った。


この頃、いつも居場所がない不安な感じを抱えて歩いていた。
何をすれば、自分に満足できる日常にありつけるのかと。
そんなものはどこにもない気がしていた。





2番目のハウスは、ワンルームが確保されてるとだけで決めた。
練馬だった。
稽古に通うにも、指導に行くにもあまり便利ではなかったが、とりあえず空いてる部屋がそこしかなかったのだ。

落ち着いた一軒家のコギレイなハウスだった。
ただ、ゲストハウスには付き物の「共有部分(リビングや台所など交流スペース)」がなくて、痛かった。

ここで、バイトが決まらないまま新極真の全関東大会に出た。
腰が痛くて、練習もロクにできない状況だった。
はじめてのフルコン(素手素足、サポーターなし)で、相手はそこそこ名のある若手だったが、再延長戦まで行 ってギリギリで負けた。

それからどんどん腰が悪くなっていった。

共有スペースのあるワンルームのハウスに空きが出たので、多少遠いが、一週間で練馬を出て、そこに移ることにした。
移動は自転車だった。
(荷物なんてバッグ3つ分くらいだった)

その頃は、バイトもしてないから、親の仕送りにかなり頼っていた。
それが、嫌で不安定の原因かもと思った。


−−−−−


次のハウスは、野方ってとこにある。
新宿区の閑静な住宅地だ。
これもだいぶ道場から遠いのだが(チャリで30分以上か)、もう腰がやばくて、道場に通うどころではなかった。
試合も、2試合ほどキャンセルした。

椅子に座ると数十秒、数分で痛みが来る。
常にクッションを用意していた。

野方は、住んでる人たちはみんな大人だった。

バイトは、コールセンター落ちてから数ヶ月やらなかった。
野方に移ったのが、5月くらいだったか。
それから、7月くらいまでやらなかった気がする。
指導の金と、親からの金で暮らしていた。

親からの金というのは…

じつは、野方に移った頃、やっと前ずっと住んでいた(ひきこもっていた)
ワンルームを引き払ったのだ。
荷物も、確か何回かにわけてチャリで持っていったんだっけ??
それともタクシーだっけ?
忘れた。

引き払う時は、荷物が色々あって大変だったな。
すげえ、汚くて、掃除とか大変だった。
電化製品処分とか、面倒だったし。

自慢っぽくなるが、トロフィーが17個くらいあったので、全部分解して燃えないゴミに捨てた。
そういえばドミトリーから移る時も、2つトロフィー獲ったのだが、捨てて出ていった。
もう「新人戦」から「フルコン(一般)」に移る時期だったし、心気一転、新しい自分からやり直す意味もあったのかもしれなかった。
でも、大きな理由は、荷物すぎたからでもあった。

で、引き払ったんだけど、親はまだそのワンルームに住んでると思ってた。
僕は、ゲストハウスで暮らしても、まだ、なんか完全に自活できる自信がなかったみたいだし
もう一つ、親にゲストハウスにいるってことや居場所を知られたくなかった。
だから、まだワンルームに住んでるってことにしといて、仕送りをもらい続けてた。


−−−−−


野方に移って、空手といったら、自分の部屋で出来る運動か、外を歩く。
後は指導だけだった。
その頃は、女子プロレスラーの手を離れる時期で、もう自分一人で出来るようになんとかなっていた。

女子プロレスラーの指導は、空手というより、空手を使って運動をしよう。
体を動かそう、みたいなものだったのだけど、僕はバリバリの空手しか知らないから、そういうふうになっていった。
もともと、女子プロレスラーは、蹴り技のために空手を少しかじったくらいだったし。
だんだん、フツーの空手を教えるようになってきて、子供たちが、今まではけっこう「楽しい遊び」みたいなものだったのが、少しづつ厳しくなったり、痛くなったりして(殴りあうので)、戸惑ってきたりしはじめた頃でもあった。

僕も、どう対応していいかわからないので、すごくおちゃらけるか、すごく怒るかのどちらかしかなかったような気がする。
女子プロレスラーから離れて最初のうちは、言うこと気かない子どもを何人も泣かした(苦笑)


野方は、なんか大人の人が多かった。
フリーの設計士とか(よくリビングで線を引いてた)、元麻薬取締捜査官で、現エコ系の少々有名な企業に勤めてる男とか、何やってるのかよくわからないけど愛想のいい30代の女性とか、工事現場監督、30代の雑学の多いバイク便ライダー、元出会い系のサクラの主任のプー…

現場監督とか、なんか仲悪くなったりした。
それ以外は、仲良くやってたな。
最初の2人。
いい人で、一緒にバーベキューとかやってた。

話が、大人なので、僕は聞いてるだけだったけど。
二人とも彼女連れてきて肉焼いたりしてイイナー

このハウスでは、トロフィー1コだけか。
9月ころに獲った最後の新人戦の試合だったか。

ただ、ハウス内でも皆大人だったこともあり、けっこう孤独だったかも。





2005年の夏。
腰が痛くて、稽古に行けず、毎日一人で公園や家で自主トレして、夜は銭湯に行ってたな。
昼は指導。
無い日は腰の情報を探して、病院やらを探してた。

このハウスでは、ひさしぶりに自炊をしはじめたんだっけ。
といっても魚を焼いたり、カレーを作ったりすることくらいだけど(今でも腕は上がってない)


週3回かで、午前中だけパン屋のバイトをした。
調理だ。

指導と合わせても、自活は出来なかった。
だけど、少しでも親から離れたかったし、一人で暮らしていきたかったのだと思う。
パン屋は、時給も安く、ルーティンワークだった。
ずっと立ち仕事で、腰にもよくなかった。
延々と、朝から4、5時間ほど野菜を切ったりパンを揚げたり焼いたりしていた。
本当につまんなかった。

ストレス的に限界がきて、3ヶ月ほどでやめた。


この頃だったと思うけど、マンガ喫茶に入って、エロ本の編集補助のバイトを探していたのを覚えてる。
編集(というか雑誌媒体に関わりたい)をやってみたい気持ちはどこかにあったけど、残業が出来なかったり(稽古優先だから)、なんか覚悟が決まらなくてのばしのばしにしていた。

「指導のバイトをやってなければ、定時で上がれる編集補助のバイトが出来たかな〜」とか思ってた。
「やっぱり指導のバイト受けていなければ…」という気持ちが…。

指導はやっぱり、お金も安く、交通が時間がかかって大変で、子どもを教えることにも、「普通のバイト(工場やコンビニなど)よりはいいや」というかんじで、「やりがい」はほとんど感じていなかった。

エロ本の編集部に、何件か電話したが、週4日だけ(指導が週3日なので)、とか定時(19時ころ)で上がれるとかの条件を満たしたとこはなかった。
なんか、全部電話で断られた覚えがある。
でも、もっと探していれば、とは思ってた。

どうせ、空手を続ける限り、残業がすさまじい編集の仕事とか無理なのかな、とか思っていたが、どうしてもあきらめきれなかった。
ずっと、なんとなく「ライター」ということは頭にはあった。
でも実行する勇気がなかった。

どこにも経験のない俺が行ったって笑われるだろう、とか迷惑がられるだろう、とかとても足が出なかった。
空手をやめることは、どうしても頭にはなかった。

結局、腰は本屋で立ち読みして見つけたある遠方の名整体師の所に行って、何度も整体に通って、自分でもストレッチを毎日何度もして、なんとか戻した。

夏明けだったか、には試合にも出たおぼえがある。
最後の新人戦で、無差別、3位だった。


−−−−−


2005年9月、野方を出ることにした。
人がみんないいから、あたたかいかんじはした。
でも、他の人も引っ越したりしていったりしてた。

池袋に新しくハウスが出来たから。
すごく狭い部屋だったが、早めに予約し、個室を確保した。
すごく日のあたる部屋だった(朝なんて暑くて寝れない)

9月中旬に入ったのだが、ビルをまるまる借りていて、30人くらいが住む大きめのハウスだった。

僕は最初の、メンバーで、2人目だった。
この池袋ハウスが、今までのハウスの中で、一番にぎやかで、良かれ悪しかれ、思い出が多い。
1年いたのかな。

ハウスはこの池袋から今まで、3つ変わっているが(今3つ目。全部だと6つ目)、池袋には思い出もありすぎた。

池袋から、黒帯レベル、一般の試合に出るようになった。
茶帯になったのかな。


指導は、だんだん板についた頃だった。

今までは、ただの「空手クラブ」だったのだが、会館の審査も受けるようにした。
最初は「雰囲気や、他の空手をやってる子を見せてやる気を出すため」

…みたいなかんじだったが、だんだん審査が目標みたいな感じになってしまった。
これには参った。
なぜなら、僕は「いつでも抜けたい、辞められるように、あまり責任を負いたくない」と思っているからだった。

しかし、空手を指導していることで、誰か初めての人に会っても「空手を教えています」と自己紹介できることは、少しうれしかった。
今までは、いくら試合でトロフィーをとっても、プロでもないし、「フリーター」(もしくはニート)に過ぎなかったからな。

まあ、今でもほとんどフリーターでニートなんだけど。

池袋ハウスに移ったのは、他にもきっかけがあった。
腰が治ってきて、バイトを探し出していたら、池袋近くのボクシングジムで広報を探していたのだ。


この頃からなんとなく、本当にライターをやるかと思っていた。
腰を痛めて、立ち仕事でもなく、自分のペースで(腰を痛めたのは、もともとは日雇いの引っ越しだったので)出来る仕事ってこれくらいしかないということもあって。

で、某空手雑誌に「ライター」として、はじめて売り込みに行ったのだった。
何日も迷った末、電話かけて行った。
「編集部に挨拶に行っとけば、ふと仕事もらえることもあるよ」と先輩ライターも言っていたので。

結果、企画書の書き方もわからず、会いに行ったらいきなりレストランに連れられて、二人がかりでかなりボロボロに言われたなwww

相当落ち込んで、次に行こうとか思いもせずに、ボクジムに行くことにしたんだっけ。


実は、空手雑誌のHPで、編集補助のバイトを募集してた。
週4日OKだった。
時間的にも稽古に出れた。

しかし、気まずいと勝手に感じたこともあって、ボクシング広報を選んだ。
その後空手雑誌には電話を入れもしなかった。
ボクシングに決まってからも、少し「雑誌のバイトにしとけばよかったかな」という思いが少しあった。




   
池袋のハウスに入り、ボクシングジムに勤めた。

週4日。
週3日は指導だったので、ほとんど休みは無かったな。

仕事は、主にHPの更新。
ボクサーたちに取材して、記事を載せる。
毎日更新で、他にも写真をアップしたり、試合に行ったり、選手たちのマスコミ対策をしたり…

まあ、仕事はラクだった。
しかし、「やりがい」とはまた違うものだったな。
違う世界(プロ)を見られて良かったけれど。
しかし、僕はプロではない。
そこに疎外感もあった。

空手雑誌でなく、ボクシングを取ったのには、一つはプロの選手、世界を知りたいと思ったためだ。
ボクサーたちは基本いいやつらばかりだから、愛想よかったり、仲良くもなれたりした。
だけど、僕にはいつも違和感があった。
「僕は、あなた(選手)のことを関心があって、聞いて記事にしてるんじゃなくて、お仕事で書いてるんだよ」
ということだ。

「お仕事」のために、本当に関心のある質問は出来ないし、相手からも出てこない。
今日ページを更新するためだけに書いているんだよ。

それが、どこか悲しかった。
空しかったと言ってもいいかもしれない。

結局、ここにいては、「お仕事」以上に心を込めて取材し、書くことは出来ない、と思い、半年ほどでやめた。


週7日仕事に疲れたってのもあった。
経営陣と性が合わなかったってのもあった。
(普通の人とかよりは合ったし、悪い人たちでもなかったが)

しかし、一番は、「関心もないのに 取材し続けるのが辛かった、ってのがあった。
ボクサーにも、なんとなく失礼な気がしていた。

ボクサーたち一人ひとりに関して言えば、めちゃめちゃ性は合ったし、気持ちもわかった。
知りたかった。


いつか、ライターになって、ジムとは関係ない(時給や組織に縛られない)所で取材しに来るよ、と思って去った。

半年ほどいた。
2006年の冬だった。


−−−−−


ボクシングジムに勤めていた頃くらいから、指導は、小学生の子供はサポーターを付けて稽古するようになった。

どうしても言うことを聞かない子がいたり、うまい子とそうでない子の差をどうすればいいか、とか、一日2回目の場所ではどうしても疲れて一回目より指導のテンションが落ちて散漫になるとかで、悩んでいたりした。
もう女子プロレスラーは完全に手を離れて、子供たち同士でも腹とかの殴り合いをしていた。

・小さいうちから、気持ちを出すこと
・安心して殴りあえる機会
・弱い子に強くすると泣かしちゃって悲しいこと
などを体で覚えてもらうのが、僕の仕事の意味だ、と思っていた。


卒園して、空手をやめてしまう子がいたりすると、やはり少しせつなかった。
小学校に上がってもやりたい、という声を受け、小学校クラスってのも作った。
そういえば、審査の連絡がなくて、お母さんがたに怒られたりしたのは、この頃だっけ?
この先の秋頃だっけ?

少し後のことになるが、小学校クラスを作って半年か一年後くらい、ADだっけ?
多動とか、発達障害とかなのです実は、とお母さんが言い出したりもあった。

そういう子は、一クラスに1、2人はいた。
「そういう子こそ空手が大事なのです」とか長々話したこともあった。
結局、そういう子は、小学校クラスに上がるとついていけなかったりして、皆やめていった。

指導の仕方に、悩んだりした。
やめていった子はたくさんいた。

主に、小学校クラスに上がって、組み手についていけず、嫌になったのが原因だった。
指導方法は、結局「ついてくるやつはついてこい、ただし、やる気があるなら出来なくても手がまわる範囲で教える」というものに今はなった。

でも、本当に空手が必要なのは「殴り合いを怖がる子」「根気がなかったり、問題あり、と思われている子」ではないかという気はずっとしていた。





ボクシングジムを辞めた。
一、ニヵ月くらい暮らせる金は残っていた。
バイトを、しばらくせずに考えていた。

僕は、親からずっと、自由になりたかった。
自由とは、経済的自立のことだ。

親から、相変わらず仕送はあった…
いや、もう無かった。
僕は、金が無くなれば金を頼むのが基本で、もう連絡をとらなくなっていたので、確か、金は振り込まれていなかったのだ。
その口座には、いくらか残っていた。

ベッドに寝転んで考えていた。
「いつかは、やらなくちゃいけなかった。僕たちは いつかは離れる時が来るのだった」


ジムをやめた後。
もう一度、ライターの売り込みに行った。
どっか保安関係のセキュリティに。
そこでも、長くは話したがほとんど相手にされなくて…

その帰り道、親から仕送りがくる口座から、残りを全部下ろして
通帳を破いて
カードを折ったんだった。

春だったなあ。


「もう、親とは完全に切れよう。お互いに、連絡とれないように しよう」


今までの、携帯を解約して、作り直し。

住居は、ゲストハウスだからわからない。


もう、お互いに連絡をとれることはない。
もう別人なんだ。





その後、夜勤のコンビニのバイト(ローソン)をした。

指導で8万ほどだったので、それ以外のお金をまかなうため。
週3回か4回くらいだったか。
23時から5時の6時間。


それから…ライターの売り込みはまた確か止まってしまったのだったな。
2006年の春。


指導に行き、稽古をし、夜勤をする曜日もあった。
最初は「こんなもんだろう」と思うキツさだったのだが…。

単調な仕事だった。
商品の入れ替え、レジが主な仕事だった。

常に、イライラしていた。
だんだん、体調を崩してきた。
ヒザも痛めていて、立ち仕事で立ったり座ったりはよくなかった。
もう、働いてる時は意識がもうろうとしていた。

ひどい時代だった。
だんだん、週に2日通うのもキツくなってきて、2006年末にやめた。
先のことは考えてもいなかった。

ゲストハウスは夏に移っていた。
板橋の一軒屋だった。


指導は2007年くらいに入ってか、悩まなくなったような気がする。
それは、いい意味ではなくて、「もういいや」というかんじ。
もうやりすごそう、お金のために、というかんじ。

辛かったのは、目標がなかったことだった。
2007年に入ってから、埼玉から板橋の道場まで、わざわざ出稽古に来る子たちが出てきた。
道場に通えば、「試合」という目標もある。
僕の週一回の指導には、目標が見出せなかった。

審査に受かるためか?
試合にも出られない(週一回じゃ無理)

子どもたちの未来を案じて、やりたいと思ってやっている仕事なのだろうか。

目標は、ダラダラと続けることだった。
いつも「やめたいな」(でもやめたら他にバイトできるのかな、他のバイトは嫌だな)などと考えながら。


−−−−−


2007年。
最初は、しばらく日雇いの仕事をしていたんだっけ。
体調が悪くて、コンビニには定期的に通えないので、日雇いなら、好きな時に入れるだろうと思って。

(しかし…こういうバイトのことを書いていると気持ち悪くなってくる。
本当に、末端バイトが嫌で、自分には合わない)


日雇いを入れていた。
もう引越しとかキツイのはできない。
腰に来るので。
製本の仕事が多かったので、受けていたら…

もう最悪だったな。
何回か、いくつかの場所に行ったが、気が狂いそうに単調で疲れる仕事だった。

本当に消耗した。
皆、無表情だった。
こいつら、よくずっと働けるよな…と…。

書類の整理をするバイトに何日か行った。
最初にたしかその週に4日くらい入れていた。

そこでとんでもない電波が社員だった。
自分のミスをこっちに押し付けてくるので、キレてケンカになった。
はっきりいって、ケンカは、もうこのくらいになるとよくあることだった。
2現場に1つくらいはトラブルを起こしていた。
(コンビニでも客とも同僚ともケンカしていた)

僕は、単純作業のおぼえが悪い。
少なくとも、他のバイトよりは遅い。
しかし平然とした態度でやってるので、気の小さいやつは気に食わないこともあるのだろう。

笑っちゃうほどトラブった。

「俺はとことんバイトは無理だな…」と思った。
サラリーマンをやったことがないが、組織の中で、上から命令されて、組織を維持するためだけに働くってのが、耐えられないんだろうな、と思った。


自分のためだけに働きたい。
自分が納得するためだけに。

「労働」なんてクソだ。
僕はガマンが出来ない。


−−−−−


金がなくてどうしようもない日が続いた。

2006年12月の試合でケガをしていて、もう肉体労働はほぼ出来ない、っていうのもあった。
もう、ライターとかやるしかなかった。
金がない。
家賃が6万だったので、もうどうしようもなかった。

しかし、引っ越せずにいた。


僕に出来る仕事は何だろうな…

自分にしか出来なくて
「遠藤さんだから出来た!」って言われて、何かを良い方向に変えられる仕事がしたい。

僕には何が出来る…??
   




ローソンをやめ、日雇いに疲れ果てた。

そして…
僕には、数年がんばってきた空手しか「とりえ」と言えるようなものはない。
それも、本当に未熟だけれど。

嫌々ながら、子どもの指導も続けてきたが、彼らから学んだこともあったろう。

明るさ。
無邪気さ。
元気とは。
弱いものに向けての接し方。
僕の教え方のクセ。

空手しか、僕は誰かを元気にする方法を知らない。
元ひきこもりの、バカな人生を送ってきた男だ。
「誰かを救おう」なんて、おこがましいことは思っちゃいない。

ただ、出来ることはそれしかないんだよな。


食うための稼ぎは別。
指導を続けるのか????

しかし、指導はルーティン化していた。
もう、目標はない。
ただ、その日行って教えているだけだ。
ルーティンの仕事…。



ライターの売り込みをもう一度、再開した。
もうなんでもいいから、とにかくデタラメでもハッタリでも企画書を書いて、持ち込んだ。
最初の仕事は「サーカス」っていう男性月刊総合誌の、小さな時事ネタコラムだったな。
僕の知ってる「コトバノアトリエ」という若者の自営支援の団体のことを書いた。

そう、コトバノアトリエには世話になり、いくつかの仕事と引き換えに、ノートPCももらったんだった。



「レンタル空手家」をはじめた。
2007年の春。
とりあえず、看板だけかかげるってことで、HPを作った。

レンタル空手家…はっきり言って、僕にすぐ出来る、やりがいのありそうなお金の稼ぎ方といえば、これしか浮かばなかったのだ。

空手の出張稽古をします。
個人でも、団体でも可。
ひきこもりや、メンタル系を主に教えたいですが、その他の人の依頼も受けます。

とにかく、自分一人で出来ることで、お金を稼ぐという実験でもあった。

今は、少しは広がって、考え方も少し進化して「お金を稼ぐ」ことよりも「本当に誰かの役に立つサービス」のほうに重点が置かれてるような気がする。
僕の中で。
だが、はじめたのはあくまで「自分ですぐに出来るお金の稼ぎ方」からだった。

今も色んなことを模索中だ。
お金を稼ぐ。
自分らしくお金を稼ぐ。
それはとても大事なことだ。

無理なく出来る、お金の稼ぎ方。
自分にしか出来ない、自分だから出来るお金の稼ぎかた。

その実験からはじめた。

「レンタル空手家」は…





僕は、本当に、誰かを助けたくて「レンタル空手家」をやっているのだろうか。
本当は、生きがいのない仕事しか出来ないと思ってきた自分自身を助けたいのではないだろうか。

そのために、何のために仕事をするのか。
何をやれば「誇り」を持って働けるのか。

それがこれからの課題だと思う。

自分さえ満足すればいい。
そんな仕事を一つ、持ちたい。


−−−−−


ライターは、その他にも売り込みには行ったが、なかなか通らなかった。
夏以降、試合に集中するという言い訳もあって、また売り込みが止まった。
「サーカス」と、奈良県の広報誌にいくつか記事を書いただけだった。

もう、板橋の一軒屋のゲストハウスには、家賃が高くて住めなかった。

それで、北区滝野川の今の安いハウスに移った。
3畳もない部屋だ。
(今は3畳半)


どん底だった。
というか、今もだが。

でももうバイトはしたくない。
どうしても…

生きていかなきゃならない。
それが、今に繋がる悩みだ。


ライターは、冬に大きな週刊誌の仕事をとって、教育雑誌、週刊誌と書いた。
でもまた止まった。

これからまた売り込み…………


レンタル空手家は、なんとかコンスタントな稽古生が2人だけついた。
取材依頼は月イチくらいで来る。
(これがまた悩みなのだが…)

今は、まず仲間が欲しい。
年初にやったマラソンのようなイベントを行うにも、一人では大変なのだ…。





この文章を書いたのは、2008年の春だった。
それから僕は、試行錯誤という名の自由を使って、手探り歩いてきた。
基本的には、ほぼ変わっていない。

僕は、自由が欲しい。
そのためには、自分の決めたことを、自分の納得いくように進めていきたい。

自由とは、自分の責任裁量ですべてが動くことだ。
孤独になることも、仲間を見つけ大事に付き合っていくことも自由。
不幸になることも、より楽しそうな人生を生きるのに組める友達を見つけて進むのも自由。


…この先は、少しの期間を飛ばして、「FOR FUTURE NO FUTURE」のブログに続きます。
尻切れですが、これからも進んでいくということです。


No Future. But, Advancing For Future!

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